海
僕は三ヶ月部屋に引きこもっていた。
大学に合格したはいいが、授業をサボりがちになり出席が足りず単位を落とし学校に行く気をなくした。最初は近所の古本屋を徘徊したりゲーセンに入り浸ったりしていたが、もはや週に一度食料を買い込む以外に部屋から出ることはなくなった。
部屋ではずっとパソコンと向かい合っていた。あてもなくネットの海をさまよい、自分から情報を発することなくうつろな顔でディスプレイを眺めていた。
あるときなんとなく登録したソーシャルゲームがあったことを思い出した。
それは海賊になりきり、自分の船を持ち大海原を冒険し、時には他の船と戦ったりするようなソーシャルゲームによくある設定だった。可愛い女の子をキミの手で指揮して財宝を手に入れようといった薄っぺらいキャッチコピーと基本料金無料という煽りとともにコマーシャルを流していた。
僕はそういったゲームを軽蔑していた。ボタンを押すだけの簡単ゲーム。いや、ゲームと言える程の戦略もない。ただただ課金した人間が勝つ。運も実力もなく、金が力のゲーム。
しかし、誰もが知るようなタイトルも続々ゲーム化され、未成年の多額課金など社会現象と言っても差し支えない程の展開をしていた。関連のコミックスが出版され、音楽が発売され、ボイスが追加され、声優のイベントがテレビで取り上げられた。
そこまで盛り上がっているのならどれ程のものなのか。僕を楽しませてくれるものなのか。しばらくプレイして見ることにした。
ミイラ取りがミイラとはまさしく僕の事だった。
僕はそのゲームにどっぷりハマっていた。僕の一日はゲームを中心に動いていた。体力のパラメータが全回復するとプレイして体力を使う。それを寝る間も惜しんで実行し続けた。課金はしなかったが時間が無限に使えるのが仇になった。
僕の一日はそのパラメータに支配されていた。
プログラムで書けば3行で足りるほどの僕の生活だったが、ゲーム内のキャラたちは何百いや何千行もの声をかけてくれた。
「さあ、一緒に冒険だよ!」
「あなたの考えた作戦だったら私何でもついていきます!」
「本当にちゃんと考えて指揮してるんですか?」
「まあ……あんたがやれって言うんなら……やるけど……」
多彩なキャラが僕に声を掛けてくれた。そんな彼女たちの期待に答えるためにも僕はより一層ゲームに励んだ。
ゲーム内では他のプレイヤーとの交流を取ることができた。しかし、僕はその機能を全くといっていい程使わなかった。僕がコミュニケーションを取りたいのは他のプレイヤーではなく愛すべきキャラクター達だった。
いつものようにゲームをプレイしていると視界の隅に携帯電話が写った。それは着信アリのランプを告げていた。確認すると実家の妹からの電話だった。留守電も入ってないし急な用事ではないと判断しベッドに携帯を放り投げる。
それから一分と経たずに携帯が震えた。ディスプレイには妹の名が表示されていた。放置しようかとも考えたが結局通話ボタンを押した。
「あ、もしもし、お兄ちゃん? もう何で電話でてくれなかったの?」
「ああ、悪い」
久しぶりの人間との会話だった。声の出し方は忘れていなかった。
「しばらく連絡ないってお母さん心配してたよ。ちゃんと学校行ってる?」
「あ、ああ。行ってるぞ」
本当のことは言えなかった。
「ホントに? イマイチ信用出来ないなー。お兄ちゃん家でずっとゲームとかしてそうだもんねー」
「大丈夫だ。ちゃんと学校には行ってる。それでいいだろ」
「ふーん。まっいいや。ということでたまには実家に連絡しましょうお兄ちゃん。でもってお土産持ってきてくれると嬉しいなという妹からの連絡でした」
「そいつはどうも」
「テンション低いねお兄ちゃん」
「いつも通りだ」
「せっかく可愛い妹が電話してあげてるんだからもっと喜びなよー。あ、もしかして彼女でもできた? お兄ちゃんの彼女? うわー、全然想像できない」
電話越しに妹の遠慮ない笑い声が響く。
「もう切るぞ」
「あーもう、ちょっとからかっただけじゃん。冗談だよ冗談。お兄ちゃんに彼女なんてできるわけ無いじゃん。それじゃね。ちゃんとまた連絡してよね」
「了解」
「じゃね、バイバイ」
一方的に電話は切れた。
実家からの生存確認を含めた電話は僕の生活を変えるにはあまりにも小さすぎた。
突然だった。
あまりにも突然だった。
ーーーーサービス停止のお知らせ。
頭が真っ白になった。マウスを持つ手が震えていた。血の気が引いていた。腰から下の感覚がなかった。心音が無音の部屋を埋める。
「う、嘘だろ……」
何度も確認した。リロード。リロード。リロード。画面に変化はなかった。
ああ、これが絶望なのだ。もう彼女たちとコミュニケーションを取ることはできない。 彼女達の声を聞くことはできない。彼女達の姿を見ることはできない。
僕の生活は消えた。三行のプログラムは消えてただのブランクテキストになった。
運営にクレームを付けるプレイヤーもいたようだが、僕は何もしなかった。もともと課金はしていなかったし、クレームを付けるのは彼女達を裏切る行為と思えた。
僕の生活に穴が開いた。ぽっかりと穴が開いた。何をやったらいいか分からなかった。ただただディスプレイの前に座っていた。空腹も感じなかった。夢には彼女達が出てきたような気がした。
三日ほど放心状態が続いた後再び妹から電話がかかって来た。無視していたがいつまでも携帯が着信を告げるので仕方なく出た。
「あ、やっと繋がった。お兄ちゃん電話に出るの遅すぎ」
久しく聞いていなかった人間の声に頭が痛む。
「ああ」
「もうホントにお兄ちゃんはテンション低いなー。うふっ、ちゃんと生きてる?」
「ああ」
「あれ? ホントに大丈夫? 妹として心配なくらいの返事しかしてないよ?」
「ああ」
「まっいいや。あのねお兄ちゃん怒らないで聞いてね」
「ああ」
「えっと実家にねお兄ちゃんの大学からの手紙が来てて、それで私中見ちゃって……」
「ああ」
「お兄ちゃん学校行ってないでしょ?」
「ああ」
「お母さんとお父さんには黙ってるけどどうするの?」
「ああ」
「ねえちゃんと聞いてる?」
「ああ」
「もういいや。お兄ちゃん部屋の扉開けて」
「ああ」
「……早く開けてよ」
僕は玄関に向かった。最後に外に出たのはいつだったか。それすらも覚えてない足取りだった。
カチャリと解錠しゆっくりとドアを開けた。
「よっお兄ちゃん生気ない顔してるねー」
人間の生の声が刺さる。高域も低域もカットされていない生の声。まさしく人間だった。
「お兄ちゃん大丈夫?」
妹はゆっくり問いかける。
「たぶん……」
僕は自分でもよくわからない解答をしていた。
そこに妹がいることにも驚いたが、生身の人間との会話をしたという実感の方が大きかった。僕が欲しかったのはこれだったのだ。どれだけディスプレイを覗いても得られなかった体験。鼓膜が前後左右あらゆる方向から音を収集する。妹の香水の匂いと微かに香る実家の匂い。僕とは似ていない真ん丸とした目。すべてが斬新だった。
「はいこれ、お母さんから。ちゃんとご飯たべてないだろうからってさ」
紙袋を受け取る。妹と手が触れ体温を感じた。
妹は勝手に部屋に上がり。
「うわっ汚い。よくこんな所に住めるよねー」
などとはしゃいでいた。
しかしそんなことはどうでも良かった。徐々に戻ってきつつある人間の感情。
季節は暑さを増していた。照りつける日と照り返すアスファルト。
僕は妹とデータではない本物の海を見に行こうと思った。